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杖道の「失われた手順」を古流動画、画像、資料から読み解く

杖道

杖道において様々な学びを得ているが、私には四段昇段後にI先生から受けた、忘れられないアドバイスがある。

それは、I先生が六段に昇段された際の講評でのこと。審査員の中に古流を修めている方がおり、「古流を学べ」、あるいは「学んだほうがいい」と言われたという逸話である。

以前このブログにも書いたが、その逸話を聞いた当時の私は、逆に憤慨してしまった。(もちろん、その後謝罪したことも併記しておく)。

杖道として制定された以上、その枠組みの中で全てが解決できるはずだ、するべきだと信じたかったのである。もし、母体となった古流杖術の助けを借りなければ本質に辿り着けないのであれば、それは制定の型として不十分だということになってしまう。あるいはその型を説明する、習得するような伝承が不十分と言うことになる。それなら、杖道をやめ神道夢想流杖術の方をやった方が良いという結論に帰着する。

しかし今、私はその「不十分さ」を静かに受け入れ始めている。当時それを自覚していた先生方がいたという事実に、ある種の冷めた、しかし深く納得する気持ちを抱いているのだ。

私はかつて武術を離れ、約10年のブランクがあった。もう触れることはないと思っていたが、縁あって制定型の武道に触れることになった。当時の私は制定型は一段下の「武術もどき」という半ば侮蔑に近い思いがあった。だからもどきに熱中することを本能として嫌悪し、時には稽古をサボることもあった。しかしこれもご縁があり地道に修練を重ね、現在は四段を得て後進の指導にあたる立場となった。

昔ならば、技法や古流の杖術の手順の真意を知るためには、直接その道場へ赴くほかなかった。私の住む岩手には、神道夢想流杖術を直接学べる場所はない。しかし現代には、YouTubeをはじめとする動画メディアがある。これも一つの「現代風の自習の仕方」ではないかと思い至ったのだ。

これまでも参考程度に杖道の動画を見ることはあったが、自分の技に取り込むべく、本質を積極的に観察しようという気は起こらなかった。しかし、技の真意を知る目的で「古流の動画」を解析することは、現在の私の環境でなし得る極めて適切なアプローチである。

具体例を挙げよう。今私が最も気になっていたのは「物見(ものみ)」の型である。古流の動画を解析すると、振り下ろされる太刀に対して、完全に右肩を前にした「真半身」となって太刀を避け、そこから左前やや半身へと移行して小手を打つ。さらに別の段階では右前真半身となった後、そのまま相手に体当たりしていく。どの手順が初心者向けで、どれが応用なのかは見当もつかないが、確かな体の動かし方を習得していく「手順」が存在している。

一方、制定杖道の「物見」は、これと比較すると明らかに高度すぎるのである。相手からの太刀の振り下ろしに対して真半身を作らず、さっと僅かに躱しただけで、いきなり左やや半身で小手を打つ。

高度だから杖道の方が優れている、というわけではない。本来そこに至るまでに必要な「躱し方」「足の運び」「身体内部の変化」といった段階をすっ飛ばし、いきなり応用の動きが設定されている。これが、制定の型をわかりにくくしている本質だと思えるのだ。

おそらく、型を制定した高段者の先生方は、すでに空気のように自然にその体捌きができる次元に達していたのだろう。そして残念なことに、型を制定する際、「どのようにして自分がそれを空気のようにできるようになったのか」という、そこに至るまでの階梯を忘れてしまっていたのではないか。

私が知りたいのは、そのわかりにくい型が「どのような手順(階梯)を踏めば、その身体使いに到達できるのか」ということである。

動画や写真で古流の手順を参考にする。しかし、細かな身体の運びは直接伝授されなければ身につかないものであり、勝手な思い込みで古流の真似事(武術もどき)をするのは危険だ。

あくまで古流は、「その手順が成立するための理合」を知るための道標である。

それならば、失われた階梯を自分なりに解析し、「杖道の型の中で、このように身体を使ってみてはどうか」と自らの身体で試し、そして後輩にも提案していく。

表面的な形をなぞるだけではない。現代のツールを活用し、型の奥底にある真意を探求していくこと。これこそが、地方で学ぶ私が実践する「杖道の現代風の自習の仕方」であり、自らの武道に真の誇りを持つための、終わりのない修練の形である。

YouTubeもやってます。

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