「本当は進めたいタスクがあるのに、締め切りがないからと今日も手を出せなかった……」
そんな風に、前に進まない自分を「怠惰だ」と責めてしまっていないだろうか。
かくいう私も、その一人であった。
タスクシュートは、「先送りゼロ」を実現する仕事管理術である。
ただ、研究職を退いて久しく、現在は臨床の医業に専念している私には、これをどう適応させるべきか、いまいちピンとこなかった。
以前の研究者時代であれば、すんなりと馴染んでいたかもしれない。当時はガントチャートなどを駆使していた。論文投稿や学会発表、講演依頼が連続していた時期であれば、タスクシュートも仕事術としてそれなりに役立っていたはずである。
コロナ禍以前は、それなりに講演依頼や発表の機会があったが、その後はめっきり減ってしまった。そこで、締め切りのない症例のまとめや漢方の知見を「Zettelkasten」に組み込むことにしたのである。
ところが、気が散ってしまい全く進まない。元来、私は怠け者であったことを思い出していた。
締め切りがないと動けない。元研究者が直面した「怠惰な自分」
先送りされるのは、締め切りのあるタスクばかりではない。むしろ、締め切りのないタスクほど先送りされる。責任感のある人間ならば、徹夜をしてでも間に合わせようとするだろうが、締め切りがなければそれもない。「明日でいい」ということになる。
最初から誰かに指示されたわけでもなく、達成したところで目に見える生産性はゼロである。C領域(時間管理のマトリクスにおける第3象限のタスクで、緊急度が高いが重要度は低い)のタスクこそが、ずんずん先送りされていく。まさに葬送の領域である。
「締め切りは常に守る。時間を守る。」
これは研究者であった私が常に心がけていたことであった。しかし、その締め切りや定められた枠組みがなくなると、元の怠惰な自分に逆戻りしていた。自らを怠惰だと自覚すると、毎日が怠惰なものに思えてくる。
ただ、怠惰であっても、日々の医療業務をこなしていれば特に咎められることはない。患者一人ひとりに集中して心を尽くし、漢方処方にもこだわりを持って工夫を凝らしてはいた。しかし、それらの診療が終わると、時間があるにもかかわらず何となくぼーっとしてしまう。時間は矢のように過ぎ去り、あっという間に離院の時間となる。「ああ、怠惰だな」と思いながら、また何となく時間が過ぎていくのである。
「先送りゼロ」が売りのタスクシュートも、数件の依頼を予定通りにこなせた途端、使うのをやめてしまっていた。
再開のきっかけはダイエット? 日々のジャーナル記録から見えたこと
再開のきっかけは、ダイエットの開始と言ってよいだろう。ジャーナルをつけ、体格や摂取した栄養素を淡々と記録した。健康状態や感情の動き、日々のイベントまでも徐々にテキスト化して記録するようになり、その流れの中で「Zettelkasten」を実践できる環境を整えていった。
ここで、「Zettelkasten」というTODOについて少し説明しておきたい。
Zettelkastenについては、検索すれば多くの情報が出てくる。ドイツの社会学者ニクラス・ルーマン博士が実践していた情報収集および加工の手法であり、氏はその結果として膨大な数の知的生産物(プロダクト)を世に送り出した。
私は、漢方や杖道、筋トレなどに関して収集した情報を集積し、加工していく一連の作業のいずれかを行うことを「Zettelkasten」というタスクとして定義した。これがブログ原稿のベースになることもあれば、まとめを終えていつか日の目を見るのを待つように保存しておくこともある。いつか論文や書籍の形になれば良いと考えている。
タスクシュートアプリの仕様として、習慣化を促すように内容や実行時間が系統的に記録される。そのため、同様のTODOと思しき内容には統一した用語を冠し、それを持ち越すようにコピー&ペーストしていく。これはタスクシュートにおいて「ルーチン」と名付けられ、区別されている。タスクシュートのアプリには、裏でこうした不思議な仕組みが走っているのだ。
ハードルは「1分」だけ。Zettelkastenが日常に溶け込んだ瞬間
しばらくの間、「Zettelkasten」のタスクは時間外の位置に置き、実行する時間の位置を移動させたり、やらなかった日は消したりしていた。消してしまえば、タスクシュート上は「予定した全てのタスクを完了した」ことにはなる。元々ログを取ること自体が目的であったため、タスクがあちこちに移動したり、消えたりすることは許容していた。
仕事の量や自身のモチベーション、他の関心事の有無によって、「Zettelkasten」のタスクは移動したり消えたりした。1分間以上作業が継続した場合のみ、ログとして残すというルールにしていた。深く考えず、ただ機械的にである。
すると次第に、「Zettelkasten」が入るべき位置が見えてきた。絶対に入れられない時間帯以外であれば、どこにでも入り得るのである。外来診療や検査を行っている時は時間的に拘束されているため不可能だが、それ以外の隙間時間ならどこにでも入り込む。「1分」という時間は、日常の至る所に存在しているのだ。時間は有り余っている。
「ああ、ちょっと忙しいけど、一分だけ。いや、ファイルを開けるだけでも。」
頭がクリアな朝の静かな時間などにそう思いながら、MacからGoogleドキュメントを開く。そこには読みかけの論文のタイトルが並び、解釈を終えて永久保存メモや文献メモに記録済みのファイルや、書きかけのファイルのリンクが並んでいる。ここまでは一分である。そして、書きかけのファイルのリンクをクリックし、内容を更新していくのだ。
いつの間にかタスクシュートの時間管理術に取り込まれていた
いや、むしろ「この時間しかできない」「この時間ならできる」という特定のリズムや時間帯が、曜日によって見出されるようになっていったのである。
私は図らずも、タスクシュートという時間管理術の真髄に取り込まれていたようである。
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