スロージョギングはまるで自己目的的行為のようだ。
自己目的的行為という言葉が本当にある。
「的的」と並ぶので変な感じがする。
違和感より不快な気持ちが字面から振動のように伝わってくる。
でも、このような同じ漢字が並ぶ用語は他にもある。
例えば太ももの骨が折れたする。
それを大腿骨骨折と表現する。
これは「骨骨」だ。これも並んでいる。
だからまあそんな言葉もあってもいいのだと無理矢理納得している。
自己目的的行為について意味は簡単だ。
行為そのものが目的となった場合がまさにそれである。
例えば無駄な会議。
会議自体が目的となっているような無駄な行為。
そう。無駄な行為を例えとして使うことが多い。
そうなると自己目的的行為とはいわば、ネガティブなイメージとして定着しているかも知れない。
しかし私は、好意的な意味あいで、長い間使ってきた。
私が最初にこの言葉を知ったのは、予備校の国語の教師の例え話からであった。
それはこうだ。
秋の紅葉が舞う時のこと。
外はやや肌寒く厚手のコートなんかを着ている。ただしまだ手袋をするのは少し早い。
ホウキで紅葉を一心に一箇所に集める。
集まった葉は次第に山を形成していく。
しかしその葉の山で焚き火をするわけでもない。
焼き芋を作るわけでもない。
紅葉を一箇所に集めても結局次々に葉は落ちてくる。
だから掃除としての意味もそれほどない。
でも、そんな行為そのものがただしたくてやってしまう。
どうだろう。
何だか詩的な情景が思い浮かぶではないか。
話を戻そう。
幾度かスロージョギングをして、余りにも心地よく、これを何に例えるか、形容するかを模索していた。
まさにこの、自己目的的行為ではないか。
特に何も効果がなくともしても良い行為なのだ。
ただ、スロージョギングをしたいのだ。
例え私が数ヶ月後に痩せなくても、私はこのジョギングを続けるであろう。
いや、でもその時は辞めちゃうかも。
コメント