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漢方の「証」にこだわるべきか?──エキス剤処方の限界と矛盾

漢方医学

漢方学習を始めたばかりの頃、症例発表の場で古株の先生に「処方の根拠は?」と質問されたことがある。つまり、「証」を聞かれたのだ。私が処方したのは桂枝加朮附湯(ツムラのエキス剤)で、附子末を加えていたと思う。西洋薬は併用していなかった。

日々通常の一般外来で慢性疾患の処方をしている中でのことだった。そこで漢方の新患が受診しても、問診・望診・聞診・切診(四診)を十分に行う時間はほとんどない。振り返れば、確かに当時は四診すらまともにできなかったし、それを根拠に方剤を決めることもできていなかった。それでも、漢方だけで症状が消えたことが嬉しくて地方会に報告したのだった。

発表では、「時間がなくて四診が十分にできず、いくつかの症状をもとに処方したところ、症状に対して著効を示した」とちゃんと説明した。当然のことながら、これはいわゆる「病名漢方」だった。証の説明はそもそもできないし、していない。

それでも、発表の場で古株の先生は「証は何か?」と質問してきた。四診をしていないと明言しているのに、である。私がうまく答えられないでいると、その先生は勝ち誇ったように「証をちゃんと見なければならない」と、自身のミニ講演会のように語り出した。他の先生方はうんうんと頷いていた。

あれから20年以上が経ち、今では傷寒論を楽しく精読している。その中で、ふと当時の出来事を思い出した。「この条文、ちゃんと四診しているのか?」と。つまり、当時の経方家たちも、症状だけをもとに処方していたケースがあったのではないか。

「証を見ろ」「弁証論治をしろ」──こうした言葉は、漢方学習を始めたばかりの医師を挫折させる一因になり得る。もし、当時の私が古株の先生の言葉を真に受けていたら、症状だけで処方することをためらっていたかもしれない。しかし、実際には症状や限られた所見のみで処方する条文が存在するのだから、構わないのだ。

今の私なら、同じ場にいたら逆に問い返すだろう。「あなたこそ、四診を行い、それに基づいて証を立て、適切に配薬できているのか?」と。

この発言は横柄に聞こえるかもしれない。しかし、実は本質を突いている。

本当に四診を行い、証を理解し、方剤を決定し、適切に配薬するならば、漢方エキス剤では対応不可能なはずだ。エキス剤は生薬量がほぼ固定されているため、ピタリと証に合うことはほとんどない。いや、あり得ないのだ。だからこそ、「証を見ろ」と言いながらエキス剤を処方している人は、四診も証もそこから方剤を決定するプロセスを理解できていない可能性が極めて高いのだ。失礼を承知でいうとほとんどの漢方医はできていない。

もっとも、私は気が小さいので、そんなことを公の場で言うつもりはない。それでも、発表者が落ち込んでいる様子だったら、「気にすることはない」と声をかけるだろう。構わず処方しまくれ、と。

え? 当時の私はどうだったかって?

それは、近畿で漢方を学ぶために転職する直前の出来事だった。「今に見てろ」と心に誓ったことを覚えている。悔しかったのだろう。でも、今となっては懐かしい思い出だ。

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