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【杖道】私が指導を躊躇して学んだこと

杖道

杖道四段の私が、ある日、六段の先生から新人に指導するよう言われたときの話だ。

その依頼は、稽古の途中で急に訪れた。型を打ち込んでいる最中、指導にあたっていた六段の先生が、ふと私の方に視線を向け、静かに、しかし皆に聞こえる声で「〇〇(私の名前)、そちらの新人に少し基本を教えてあげてくれないか」と告げられたのだ。

正直なところ、一瞬で様々な思いが頭を駆け巡り、私は即座に「躊躇」した。

「私で、本当に大丈夫だろうか?」

これが私の最初の、そして最も強い感情だった。四段とはいえ、自分自身の型にはまだまだ改善の余地があると感じていた。打ち込むときの体捌き、間合いの取り方、気の持ちよう。どれをとっても、完璧とは程遠い。その「未熟さ」が、指導を通じて新人の型に悪い癖として移ってしまうのではないか、という強い不安に襲われたのだ。

結局、私はその時、「すみません、私自身の悪い癖が新人に移ってしまうのが心配ですので」と、婉曲に、しかし明確に断ってしまった。言葉にしてしまえば、それは自己保身に聞こえるかもしれない。しかし、その時の私にとっては、純粋な責任感の裏返しでもあったのだ。間違ったものを教えてしまうことへの恐怖、それが私を躊躇させた。

私の辞退を受け、別の六段の先生が代わりに新人の指導を担当することになった。その先生の、淀みなく流れるような動き、そして新人に寄り添う優しい言葉遣い。それを見て、私はますます自分の決断が正しかったのか、と自問自答せざるを得なかった。

そして、その日の稽古後、またさらに別の六段の先生が、私の傍に来てくださった。私は指導を断った経緯を話す。すると、その先生は、静かに、しかし含蓄のある言葉を私に賜ったのだ。

「誰かを指導するということは、自分が学ぶことでもあるんだよ。教えるためには、自分の型を改めて見つめ直し、言葉にしなくてはならない。それは、君自身の修行を、次の段階に進めることにも繋がる。」

この言葉は、私の心に深く響いた。指導を断ったのは、自分の型が固まっていないから、という理由だったが、その型を固める行為そのものが、指導を通じて深化する、という逆説的な真理を示されていたからだ。

翌日、私はこの一連の出来事を、知人に話した。私の未熟さゆえの躊躇、そして六段の先生方からの言葉。すると知人は、私の話を最後まで聞いてから、優しくも鋭い一言を放った。

「指導した方が良かったよ。君自身が未熟だと思うならば、『一緒に修行しよう』と言いながらすればいいのだから。」

この言葉に、私は本当にハッとさせられた。そうだ。指導とは、完成された師が未完成の弟子に一方的に知識を与える行為だけではないはずだ。特に武道においては、共に汗を流し、共に型を追い求める「共闘」の要素が不可欠ではないか。

考えてみれば、指導者が自信なさげに「自分のせいで悪くなったらどうしよう」と内心で躊躇する姿は、新人にとって最も不安でしかないだろう。師の「不安」は、弟子の「不信」に直結しかねない。

私は、自身の未熟さを隠す必要はないのだ、と気づいた。むしろ、それを素直に認め、「私もまだ修行の途中です」と開示することで、新人との間に、より人間的な信頼関係を築くことができる。

指導者としての私に今必要なのは、完璧な技術ではない。未熟さをも包み込む、開かれた心と、共に進もうとする情熱なのだ。

「一緒に修行しましょう。打ち合うの、楽しいよ。」

次は、そう言って、新人の前に立ってみようと思う。

私の未熟さも、指導者としての経験の一部として、隠さずに伝えていけばいい。失敗を恐れず、共に成長していくことこそが、指導という行為の、最も深遠な醍醐味なのかもしれない。指導は、私自身が一段、上のステージへ進むための、最高の稽古場なのだ。

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