「知的生産の技術(梅棹 忠夫著) 」は得ることが多かった。しかしどうしても分からない部分があった。
それは「くる」だ。
「カードは、活用しなければ意味がない。カードは、くるものである。カード・ボックスにいれて、図書カードをくるように、くりかえしくるものである。」『知的生産の技術 (岩波新書)株式会社 岩波書店(梅棹 忠夫著) p.62)』
この、「くる」が分からなかった。
何かがやってくるのか。
「きっと」「くる」ならば貞子だろう。
「きたー!」は目薬だ。
それではない。
知的生産のカードをその扱いをするわけではない。
先日、Audibleで『一人称単数(村上春樹著)』を聴いていた。
そこで、「本をくる」と言っていた。
Audibleだから読むのではないのでナレーションを聴いているので、言っていたのだった。
また同じく、Audibleで『女のいない男たち (村上春樹著)』で「急いでスケジュール表をくった」と言っていた。
これをぐぐると、本をめくるのと同義のようだ。
図書カードを「くる」、それも繰り返しだ。
それは、まさに検索だ。
ぱぱぱ、とめくっていく。
知的生産のカードは、まさに検索なのだ。
探して、探し当てて、現れるのだ。
しかし、ここでまた疑問が生まれる。
最初から整理を放棄した数百枚あるいは千枚を超えた知的生産のカードをどこから始めてどこまでめくっていくのか。
全部?それかヤマ感?
疑問は尽きぬ。
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