武道や武術の目的とは何だろうか。
私は、相手に気配を漏らさず「見えない攻撃」を繰り出し、防御しても防ぎきれない攻撃を可能にすることだと考える。少なくとも、それが私の目指すところである。これが実戦的かどうかは、ここでは問題としない。
まず、例として居合について触れたい。(※私は制定居合道については全く知らないため、ここでは触れない。)
私は過去に学んだいくつかの古武術に、居合に通じる動きを見出してきた。そもそも「居合」とは何であろうか。単に座して抜刀することか、あるいは竹を切ること(試斬)であろうか。
黒田鉄山氏や甲野善紀氏の著書、そして私自身が学んだ「居合的な型」から導き出される認識は、こうである。
此方は座したまま刀は鞘の中。一方、敵は既に太刀を抜き、切先を此方へ向けている。
この絶望的な状況から、居合は敵に勝利する。これこそ太刀の技術の精髄であり、最高峰であると認識している。
さて、この認識を杖道に当てはめてみたい。
先日、大きな鏡の前で初心者を指導していた時のことである。自ら解説し、説明しながら、ふと鏡に映る自分の姿を客観的に眺めていた。
そこで、ある事実に改めて気付かされた。
私は、相手に「気配を漏らさない」ように動こうとしている。
そのために、意図的に「動いていない」ように見える動きを追求しているのだ。
試しに、その初心者の方へ「(私)動いていないでしょう」と尋ねてみた。すると、「はい。それを見て(ここへ)入門したんです」という答えが返ってきた。なんと鋭い感覚であろうか。
そもそも、杖道における杖側のシチュEイションは、先の居合と同様、極めて絶望的である。真剣(日本刀)に対し、こちらは単なる「棒きれ」で対抗しようというのだから、正気の沙汰ではない。
それどころか、相手は既に太刀を抜いて「八相」に構えている。こちらは、相手が切りつけてから動いて反撃するというのだ。常識で考えれば、まず勝てるはずがないシチュエーションである。
しかし、これを技術として達成し、かの宮本武蔵に勝利(あるいは引き分け、少なくとも殺されなかった)したとされるのが、杖道の源流である神道夢想流杖術の開祖、夢想権之助勝吉である。
鏡に映る自分の「本手打」を観察する。左にやや半身を切りながら、右手は動かさず、左手をゆっくりと引く。最初の構えから、体幹はほとんど動いていない。
この動きこそ、まさしく(前述の)居合における体捌きの鍛錬そのものではないか。
これまで、動きのコツは多くの師から教わってきた。それらは一見バラバラで、統一性がないように思えた。「なぜ、そんな些細なことに拘るのか」と感じたものも少なくない。
一つひとつは、取り立てて大したことを教えているようには見えない。しかし、それらが組み合わさると、実に摩訶不思議なことが起こる。
今、鏡に映る私の姿のように、動作の「気配」を漏らさない動きが立ち現れてくるのである。
「絶望的なシチュエーションからの反撃」──この原点に立ち返り、杖道を再度見直す必要があると感じている。


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