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ならば発想法はいずこか

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 知的生産とは何か。発想法、思考法との関わりは何か。

「知的生産の技術 (岩波新書) 梅棹 忠夫 (著)」を通読。さらに「考えの育て方: 知的生産のデジタルカード法 (倉下忠憲 著)」を幾度か精読した。それぞれアナログのカード法、デジタルのカード法について言及している。問題はそのカードとは何を書き記し、そしてどう生かして行くかということだ。

結局発想法に対する認識の誤解はただ一つ。発想法と思考法を混同、同一視していることが原因であった。

カード法の中で一旦情報として収集し、知識として保存する。そして忘れている状態になっているのをも含めて、関連した複数の知識が思考のための情報として遡上に浮き上がらせる。そのための道具として「知的生産の技術 」のカード法があるのだ。そしてカード法はともかく「くる」ことが重要なのだと氏は主張する。

今日、デジタルで同様の「くる」作業が比較的しやすシステムがCosenseである、ということで間違い無いと思う。梅棹氏の言うカード法の「くる」作業はスクロールやデジタルカードのクリックということになる。ツールとしてはPCのディスプレイで行うのが私にとってはしっくりきている。

これまでの話をまとめると、知的生産とは効率的な思考法であることが言える。それと同時に新たな疑問が浮かぶ。

ならば、発想法とは何だろうか。

倉下氏が上記の書籍で引用して内容としては以下のことである。

ジェームス・W・ヤングの『アイデアのつくり方』によれば、アイデアとは「既存の要素の異なる組み合わせ」である(倉下忠憲. 考えの育て方: 知的生産のデジタルカード法 (p. 28))。

たとえば、一枚(カード?)が「回転寿司」で、もう一枚が「書店」ならば、「回転書店」を思いつくことがそれだ(同上p. 41)。

しかし、「回転寿司」、「書店」は知識ではない(同上p. 42)。

これを見て分かるように、発想法とは言葉であったり、概念であったりイメージであったりして、論理を超えてそれこそびびっと脈絡なくたまたま降りてくるものであろう。決して複数の論理的な道理の帰着として現れるモノではないのだ。

私は思考法の整理を目指す。発想法は天啓を待つ。

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