先日、杖道の稽古で初めて拝顔する方が稽古に来られた。私よりも高段者である。しかし、どうも型がおぼつかないようであった。所々間違え、不自然な間が生じている。それどころか、間合いも曖昧であった。おそらく久しぶりの稽古なのだろうと思い、ゆっくりと稽古を進めた。
しばらく経った後、今度はその先生に太刀の持ち方を指導いただくことになった。「おお、少しリラックスされたのかな」と思って気合を入れて動作していると、中休みの時、I先生が私に耳打ちした。「あの人は〇×さんといってね、杖道、剣道、居合道をやっているんだよ」。
「へえ、それが何か意味があるのでしょうか」と、思わず聞き返してしまった。言った後、少し後悔した。「それは凄いですね」と言って欲しかったのだと察し、すぐに言い直したが、I先生はいつもの仏様のような微笑みをたたえ、去って行かれた。
なるほど、剣道あるいは居合道も高段者だからこそ、剣の持ち方が詳しかったのだろう。
古武術は結局のところ総合武術である。現代武道では、それぞれ一つのみに特化されている。例えば剣であれば剣道というように、究極に最高に極限に、剣の道を行く。これは素晴らしいことだと思う。杖道はまだまだ道途中であるため、ただ「凄い」としか言えないのが悔しい。
さて、私自身はどうだろうか。過去稽古した武術は、系統が全く異なるので、杖道の稽古にはほとんど活かせない。
しかし、私は漢方を究極まで追究している。古典を読み込み、新しい治療フローを確立することで、以前の私より今の方が確実に腕は良い。また、刺絡(しらく)も適応を広げている。単なる漢方の補助ではない領域であり、日本刺絡学会の先生方の協力を得ることで、高いレベルにあると自負している。
「え?関係ない?」いや、私は大いに関係あると思っている。
どんな領域でも、抽象的な部分で繋がっているのだ。皆に平等に与えられた限られた時間内で、自分なりに工夫を尽くし、究極を目指す。私にとってもこの杖道もまた、これに当たる。
話を戻す。その先生、剣道、居合道、杖道の3つを同時に稽古するのは勿論良いし今風に言えば尊い。ただ、ちゃんと究極を目指せば、全て通じて上手になるはずだ。段位を取るのが目的ではない。杖道もより稽古したら良いと思う。


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