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アカから青へ:幸せのブルーリボンバッジ

雑記

 突然横田早紀江さんのセリフが耳に飛び込んで来た。「9条を改正しないとダメなんです。」と。その時私は大いに戸惑った。

 私は赤だった。赤であるというのは社会主義、共産主義思想を支持している人るであるということだ。私が赤になった理由は簡単。両親が共産党支持者であったからだ。そうえいば当時共産党の機関誌赤旗で、「赤の何が悪い、赤ちゃんともいうだろう!」なんて投稿記事が載っていたっけ。母その記事を見つけてそうだそうだとにこやかに笑っていた。他の家族もそれを見てそうだそうだと。今となっては良い思い出だ。

 そういえば赤旗まつりにも参加した。共産党の主催だと思う。今もあるのだろうか。小学校の頃、弟は夏休みの宿題で赤旗まつりに行って楽しかったと書いたことがある。実はその原稿はクラスの皆に配布されることになっていた。勿論子ども達の親も目にする可能性が大である。両親はそれがわかっていて弟に書かせた。

 それを読んだ教師は面食らったろうな。実際に配布された印刷物を見たら、弟の作文の中にいくつかあった「赤旗」という文字が外れ、ただの「まつり」に校正されていた。それは意地悪ではなく教師の気配りであったろう。しかし私たち家族はそれも分かった上で、越権行為だと憤った顔をしてみせた。面とは向かわず自宅内で。そういえば私もそうだそうだと怒って見せた。当時の私は親に褒められたい気持ちが常にあったから。これも、懐かしい。

 恐らく共産党支持者は総じて、妙な優越感があると思う。それはどういうことか。自分達だけ社会のあるべき姿を理解している。どうだすごいだろう。その一方で共産党を支持しないものはそれが理解できないから劣っている、と。あれ?うちの家族だけ?

 ただ不思議なこともあった。私が共産党の青年部である、民生同盟に入ろうとしたときのことである。すでに申し込み自宅住所も記入していた。そうえいば申し込みした場所はあの、赤旗まつりであった。そしたら何故だか父がそれを全力で止めてくれたのだった。父は自宅に来訪した民生同盟の青年たちを論破していた。その青年達は私をどこかに連れて行くつもりであったのだろう。それにしてもその人たちは意外とあっけなくやられていた。かく言う私もそれにはあっけにとられた。そもそも眼科医を標榜していた父は、ものすごく頭が良い人であった。父は間違いなく共産党支持者ではあったものの、実は何か違和感以上のものは感じていたのかもしれない。今思えばもっと違う方向に使えば世の中のためになったろうにと悔やまれる。

 私はというと、30歳台に入りようやく共産党への盲信から脱却した。しかし次の投票先は民主党であった。「コンクリートから人へ」のスローガンに心酔し、事業仕分けで民主党議員が官僚達相手に議論?している姿は胸がスッキリする思いだった。このようにして私の迷走はしばらく続き、過ちは繰り返された。

 その後、絶望した後に民主党と袂を分けた。大凡それと同じ頃、青山繁晴氏が大阪ローカルで定期的な番組を観る機会に恵まれた。青山繁晴氏は当時独立総合研究所の社長で危機管理の専門家で、メタンハイドレートの研究者でもあった(他の肩書もあるかもしれない)。現在彼は自由民主党参議院議員2期目である。そうして初めて自民党に投票した。私が投票したからではないだろうが、その選挙で自民党は政権に復帰した。しかしそうであっても私は我が国の平和維持と発展のため憲法9条は動かざる基本的な方針として持ち続けていた。三つ子の魂100までとはこのことである。

 話を元に戻そう。

 横田早紀江さんは1977年に北朝鮮人民共和国によって拉致された、当時中学生の横田めぐみさんのお母さんである。娘を北朝鮮人民共和国から取り返すための活動をしている。当時の私は片道1時間の通勤中ネットから録画したビデオを車中で音だけ聴いていた。受け取ったセリフはそのビデオからであった。

 当時それは言い過ぎではないかと思っていた。何関係ないことを言って。右翼なのかと思った。しかしその後ご縁がありいくつか情報、知識に触れる機会があった。そうして分かったことは我が国には憲法第9条で交戦権が否定されているため、拉致被害者取り返しに行けない。相手が国であれば戦えないことがわかった。横田早紀江さんの当該のセリフはその前提での主張であったのだ。

 さて、また話を戻す。私は長い間赤であった。そして以前は拉致被害者なんていない。それは単に被害妄想だと思っていた。それに9条を妄信していた。しかし、全て否定されたと分かったてしまった当時、目が覚めた直後、私は病的な状態に陥った。具体的には殺意に似た憤怒が出た。これまで私を騙しやがったな、と。その怒りは親にも向いた。またその一方で心を抉るような深い反省、恥じる気持ちから世の中から逃避したくなるような衝動が繰り返し吹き出していた。私は長い間苦しんだのだった。拉致被害者の方たちとそれを支える人たちに、なんと申し訳ないことをしたのかと。

 ブルーリボンバッチの存在を知った時、欲しいと思った。このブルーリボンバッジは拉致被害者救出運動をしている「家族会・救う会」へ支援金を寄付するともらえる。まさに会の賛同と連帯の証である。勿論身につけたいと思っていた。でも私なんかにそんな資格あるのかと思い悩んでいた。そうして気づいたら5年以上の歳月が過ぎていた。横田早紀江さんの冒頭のセリフを聞いてからもう12年経過していた。

 2023年7月下旬。たまたま福島駅前に訪れる機会があった。そしてこれもたまたま、そこに「家族会・救う会」ののぼりと署名コーナーがあった。吸い込まれるようにその場所に向い、署名するための椅子に着いた。勿論署名した。

 そして、今思えばとても迷惑だっただろう。その場にいた方にこれまでの経緯を話をした。その方は元教師とのことだった。感情的なってしまって、一方的に想いを捲し立てていた私に、その方はとても冷静な面持ちで、一つ一つ丁寧に多くのことを語りかけてきてくれた。私にとって梅雨が明けた直後猛暑の中でとても爽やかな心洗われるようなひとときであった。

それ以降私は毎日ブルーリボンバッジを胸に掲げている。ようやく赤から青になれた。

拉致被害者の皆様。1日も早いご帰国を不詳私を含め、皆でお待ちしております。

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