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「卵」はなぜ割れないのか? 胸郭のパラドックス

雑記

杖は「引く」ものでも「突く」ものでもない —— 背中の張力(テンション)と重力の等式

前回の考察を経て、私の稽古は「いかに背中を杖に伝えるか」という一点に集約されつつある。

道場で独り、木床を踏みしめながら、画面越しの西岡先生の背中を追う日々が続く。

そこで見えてきたのは、腕という「棒」を動かす次元を超えた、身体内部の力学的な整合性であった。

「引く」という言葉の罠

初心のうちは、どうしても「引く」という動作を腕の筋肉、特に上腕二頭筋で行おうとしてしまう。しかし、西岡先生の「本手」における引きは、腕を畳む動きではない。

それは、「肩甲骨が腰に向かって落ちる」結果として、杖が引き込まれる現象である。

これをジムのマシンで再現すると、ラットプルダウンの「初動の数センチ」に行き着く。

肘を曲げるのではなく、広背筋の停止部をぐっと引き下げ、背中全体を板のように固める感覚。

この時、杖は私の意志で「引く」のではなく、身体の構造が「沈む」ことで勝手に位置を変えるのだ。

この一見して受動的とも取れる動きこそが、相手から見て「予備動作のない、重い引き」の正体ではないか。

突くのではない、背中の張力を解放するのだ

突き(返し突きなど)においても、同じ理合いが働いている。

腕で杖を前方に押し出すのではない。

「小指を締める」ことで背中に蓄えられた巨大な張力(テンション)を、肩甲骨の安定を保ったまま一気に前方へと解放する。

イメージとしては、**「弓の弦が戻る」**動きに近い。

弓の本体が背骨であり、弦が腕、そして矢が杖である。

肩甲骨が浮いてしまえば、弓の本体が折れたも同然で、威力は霧散する。

「脇に卵を挟む」という教えは、この弓の本体を強固に固定し、エネルギーのロスを防ぐための、先人の知恵だったのである。

映像という「鏡」との対話

師が目の前にいないという事実は、残酷であると同時に、私に「自己客観化」という武器を授けてくれた。

自分の稽古をスマートフォンで撮影し、西岡先生の映像と並べて比較する。

そこには、残酷なまでの「形の差」がある。

しかし、その差を埋めるのは根性論ではない。

「なぜ先生の肩甲骨はここで動かないのか」「なぜこの角度で小指が立っているのか」という解剖学的な問いだ。

ジムの鏡の前で広背筋の動きを確認し、その感覚を持ったまま道場の静寂に入る。

バーベルの重みは、そのまま太刀の圧力となり、マシンの抵抗は、そのまま相手の体勢を崩す手応えへと変換される。

おわりに

「本手」を握るたび、私は亡き師と、そして自分自身の身体と対話する。

解剖学という眼鏡を通して見る武道の世界は、神秘のベールを脱ぎ、精緻な物理法則の美しさを見せてくれる。

しかし、理論だけで到達できる場所ではないことも理解している。

理論を身体に溶かし込み、無意識の反射へと昇華させるまで、私は杖を振り続ける。

画面の向こうで、無言のまま「背中」で見せてくれるあの人の高みに、一寸でも近づくために。

 

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