『輔行訣』の解説記事、心臓病(心病)に関する更新が滞ってしまい、申し訳ありません。 医学古典の探求は、まるで砂を掴むような作業です。渾然とした膨大な文献を読み込み、手に握って開いてみると、確からしいことは指の間からサラサラとこぼれ落ちていき、ほんのわずかな本質だけが手のひらに残る。しかし、そのわずかに残った「確かなもの」こそが、処方を支える揺るぎない核心となります。
今、私が直面しているのは、単なる成立年代の疑問ではなく、『輔行訣』の核心に迫るための一貫した研究方針の再確認です。
陶弘景が経典として引用したとされる一文、 「経云: 諸邪在心者, 皆心胞代受, 故証如是。」
- 「心包代受」という用語の近代性
まず、「心包代受」という熟語そのものが、多くの見解で清代以降に確立された近代的な表現であるという学術的な疑問があります。この言葉が6世紀の書物に存在しない可能性は高く、注釈部分に後世の解釈が加筆された痕跡であると考えられます。
- 陶弘景の注釈(「陶云…」)を解析対象外とする理由
そして、さらに重要な点として、私は以前よりこの陶弘景による注釈部分(「陶云…」)の方剤解釈を支持しておらず、一貫して解析対象にしていません。
『輔行訣』の本文に示された五臓の病に対する方剤の構造と運用は、陶弘景の注釈が示唆する解釈よりも、はるかに洗練され、古代『湯液経法』の真髄を留めていると私は確信しています。注釈の解釈を主軸に置くことは、本文が持つ方剤の体系性という確かな核心を見失うリスクを伴うと考え、この方針を堅持しています。
この疑問は、次のような大きな示唆を与えてくれます。
- 注釈部分(「陶云…」「経伝…」)は、単なる成立時期の疑問だけでなく、本文に示される湯液経法の本質的な解釈を妨げている可能性がある。
- 真に価値ある古典の核は、注釈を除いた本文そのものにあるという研究方針が、改めて正当化される。
この学術的な「脱力感」は、実は『輔行訣』という文献の奥深さと、注釈に惑わされずに本文の力を信じることの重要性を再認識させてくれる、新たな探求の始まりなのです。
古典からこぼれ落ちずに残った、本文の持つ本質的な知識を一つでも多く見つけ出すこと。そして、その確かな知を現代の臨床と処方へと還元すること。これこそが、私の使命です。
本文が持つ純粋な力を追求するため、この歴史的・臨床的な判断をエネルギーに変え、今後は本文の解読に焦点を絞り、記事を再始動します。


コメント