私は杖道稽古の「遅刻魔」だ。いや、「魔」などという生易しいものではない。「王」と呼ぶべきである。
どれほど王かというと、遅刻率100%だ。
皆勤賞ならぬ「皆遅刻賞」である。
もちろん、私とて社会人だ。一部の先生には「日曜午前勤務」という、やむにやまれぬ高尚な(?)理由をお伝えし、了解も得ている。だが、全先生がこの事実をご存知かは甚だ疑問である。
それどころか、私自身「どうせ遅刻するのだ」と完全に開き直り、道すがら気になっていた喫茶店で優雅にモーニングを嗜んでから道場に向かったことすらある。これは明確なるサボタージュ、反逆行為である。
しかるに、である。
私はこの「100%遅刻」という重罪について、一度も、ただの一度も叱責されたことがない。
なぜか。
仮説1:先生方の心が太平洋よりも広い。
仮説2:昇段試験で学んだ「杖道とは許すこと」という高尚な理念を、先生方自らが実践しておられる。
しかし、私はもう一つの可能性も捨てていない。
仮説3:先生方は内心、額に青筋を立てながら「これも修行…!」と、私を許すことで己の精神を鍛えておられる。
仮説4:もう諦められて、単に「放っておかれて」いる。
真実は闇の中である。
だが、この「遅刻王」の道にも当然ハンデはある。
稽古冒頭の神聖なる儀式――礼、ストレッチ、太刀・杖の単独動作。これら全てを、私は華麗にスルーしてしまうのだ。
ストレッチはともかく、太刀と杖の単独動作は、先生の鋭いチェックをも(物理的に)回避する。上達には自主トレでの補填が必須となる。
特に杖の単独動作は厄介だ。
全十二本の型には「本手に構え、本手打用意、始め!」「やめ!」「元へ!」「位置交代!」などと、厳格な掛け声が定められている。初心者の頃ならいざ知らず、上段者たるもの、これを堂々と、腹の底から、正確な順番で叫ばねばならぬ。
私なりに対策は講じた。
自主トレと称し、解説書とにらめっこしながら「一人掛け声稽古」を敢行したのだ。誰もいない空間で「本手に構え〜」とブツブツやっている姿は、客観的に見てかなり不審であったと自負している。
この涙ぐましい(?)努力のおかげで四段審査を切り抜け、今もその不審な稽古は継続中である。
しかし、真の敵は別にいた。
それが「相対(そうたい)」である。
単独動作に太刀を加え、二人で組んで行う型稽古だ。
これが、驚くべきことに、ぜーーーーんぜん、覚えておらへんのである。(※心の叫び)
実際、この相対は日曜の通常稽古では極めて稀にしか行われない。年に数回の講習会で「あ、こんなのあった」と思い出すレベルだ。
昇段試験の研修会で「相対は間合いの稽古に非常に有効だ」とご指摘を受け、まさにその通りだと深く感銘を受けた。受けたのだが。
いかんせん、相手がいない。
自宅で一人ではどうにもならない。相対の稽古は、私にとって永遠の課題であった。
だが、ここで私にチャンスが、いや天啓がやってきたのだ。
それは「初心者への指導」である。
もちろん「プラス上段者の見守り」という、万全のセーフティネット付きのミッションだ。
計画(プラン)はこうだ。
- あらかじめ教本を熟読し、ビデオで猛烈に予習しておく。
- 稽古当日、さも「君のために」という顔で初心者にこう告げる。「じゃあ、太刀を混ぜてみようか」と。
- 私が学ぶ。
なんと素晴らしい。
これぞ「役得」。
私は私の稽古のために、初心者を(最大限の敬意をもって)利用させていただくのだ。
ふっふっふ。
さっそく次回稽古から、この「指導という名の高等自主トレ」を開始することに決定した。待っていろ、相対。


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