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小指の教えとの再会に思うこと

杖道

 杖道というものは、実に不思議な武道である。そのルーツである神道夢想流杖術には、おそらく想像もつかないほど深遠な術理が秘められているのだろう。

昭和に入り、全日本剣道連盟の「杖道」として再編される過程で、少なからぬ技が削ぎ落とされたと聞く。それにもかかわらず、一手一手の稽古を重ねるほどに、見えかけたはずの深淵がむしろ遠ざかっていくような、底知れぬ感覚に陥るのだ。

かつて別の武道を嗜んでいた折、このような教えを受けたことがある。

「最初に習う技こそが、最も重要である」と。

そこには「一番練習してほしい技だからこそ、最初に置かれているのだ」という合理的な理由がある(もっとも、手の内を隠す古流武術の世界ではその限りではないかもしれないが)。

杖道で言えば、それは「着杖(つきづえ)」に他ならない。なるほど確かに、これほど長く稽古していながら、未だに納得のいく形にならない技も珍しい。私は今日に至るまで、この「着杖」という迷宮で、ああでもないこうでもないと悩み続けている。

それと同時に、前回触れた「小指(および薬指)」の話である。

実を言えば、これは入門したての頃から口酸っぱく言われていたことなのだ。それから今日まで、事あるごとに指摘され続けてきた。

杖道には、技のコツや細かな指定が無数に存在する。一つひとつを取り出せば、決して難しい注文ではない。しかし、それら全てを「同時に」こなそうとした途端、難易度は跳ね上がる。

この小指の件も、これまでは「多くのチェック項目のうちの一つ」に過ぎないと解釈していた。言われるたびに「形式的な作法か、あるいは手の内の締め具合のことだろう」と自分なりに整理しては、時の経過とともにいつの間にか忘れてしまう。そんな不義理を、私は幾度となく繰り返してきたのだ。

何度も教えを受けていながら、その真の重要性を理解できず、膨大な教えの中に埋没させていた。それが、全く別の視点(肩甲骨との連動)から悩んでいた時にふと小指の件が再浮上し、ようやくパズルのピースが嵌まるように腑に落ちたのである。

私もいつか後輩を指導する立場になった時、相手が何度言ってもできず、あるいはその価値に気づかずにいても、腐ることなく淡々と、そして根気強く同じことを伝え続けられる。そんな指導者になりたいものだと、自戒を込めて思うのである。

 

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