以前輔行訣を訳したとき、私は范志良抄本のみを経方医学で解釈した。
今回二回目改めて見直したとき、最初の肝病を読み進めているうち、それだけでは駄目と分かった。別の写本版を読んだ時、湯液経の文章そのもの、症状がばらばらであった。その時以前訳したときのことを思い出した。こんな症状でこの処方は余りにも不可解だと。それでも悩みながら何とか経方医学を適応させた。
今回はあらためて全てのバージョン(この表現が正しいか不祥だが)についてを見直す。
最初に3つのバージョンの日本語意訳を覚え書きとしてここに記す。全12バージョンある。今日はその中の最初の3つである。
- 范志良による『輔行訣』の写本(旧暦1965年2月6日)
縦約20.0cm、横約13.3cmの写本。表紙には、左から右へ、筆文字で3行にわたり「《輔行訣臓腑用薬法要》」「范志良抄」「秘本」と書かれています。
この写本は、表紙と最終ページの追記を含めて42ページで構成されています。各ページは11行から13行で、1行あたり約22文字です。本文の最後には「一九六五年 月初六夜抄完(1965年旧暦1月6日の夜に転写完了)」という12文字が記されています。
また、この写本には、別の紙に横書きで追記された2ページの内容があります。そのうちの1ページには「薬物化合」と「処方正範」の一部が、もう1ページには「啓喉方(注釈)」と「熨耳以通腎気(原文)」という2つの処方が記されており、これらは本文中の「啓喉以通肺気(原文)」および「灌耳方(注釈)」に対応しています。
この写本は、范志良氏が1965年に張大昌氏の写本をもとに縦書きで転写したものです。この写本には、小文字で追加された注釈が20箇所あり、これらは1988年に出版された『敦煌古医籍考釈』の注釈と意味が同じです。読む際には、写本の原文と区別して扱う必要があります。(范氏による補足:この注釈は、師と私が検討して作成したものであり、『考釈』版を参考に転用したものではありません。)
- 张大昌抄本による『輔行訣』の写本(1974年)
縦横は約20cm×12.5cm、この写本は全部で30ページあり、各ページは主に9行から10行で、1行あたり22字から26字と文字数は様々です。この写本は、1974年末に張大昌先生が平郷へ往診に行った際、帰りに王子旭先生の家に宿泊し、その際に王子旭先生に手渡したものです。当時、王子旭先生はそれをさらに書き写し、64開の赤い表紙のノートに記録しました。その写本は現存しており、「七四年末重抄」という文字が記されています。今回使用しているのは、張大昌先生が自筆で書き写した原本です。
この写本の表紙の書名は「陶隠居五臓用薬法要」となっており、表紙には「七四年録本」という年代が記されています。本文の書名は「辨五臓病証用薬法要」となっており、本文は比較的簡潔で、細目は以下の通りです。
肝臓の病証と薬を辨ずる第一章
心臓の病薬を辨ずる第二章
脾臓の病薬を辨ずる第三章
肺の病証と薬方を辨ずる第四章
腎臓の病証と薬を辨ずる第五章
また労損を治す方五首(また復脈湯)
また誤りを救う諸方の例
五小補湯の加減例
君臣佐合離功能図
並びに諸薬の五味五行体用表
五臓補湯の示意図
五臓瀉湯の示意表など
この写本には、他の写本には見られない多くの条文が含まれています。例えば、「経に云う:心は帝王にして、精神の宿るところなり。その臓は堅固で、邪は客とすることができず、客とすれば則ち心を傷つける。心が傷つけば則ち神は去り、神が去れば則ち身は死す。」、「また手の心主は、動けば則ち病み、手のひらが熱くなり、肘や腕が引きつり、脇が腫れる。甚だしければ則ち胸脇が張り、心中が動悸し、顔が赤く目が黄色くなり、笑いが止まらなくなる。これを心の実と為す。脈より生じる病は、則ち煩心、心痛、掌中の熱なり。」及び「また復脈湯:五臓の気血の衰乏、脈が結代するのを治す。急ぎこの湯を数服すべし。然らずんば日は必ず危うし。この湯を詳らかに注釈し、処方する際に主副を定めんと議す…………」云々。これらの条文は、張大昌先生自身が整理研究して加えたものと考えられます。
3.『輔行訣』劉德興の写本 (1975年7月20日)
この写本の表紙には、『輔行訣臓腑用薬法要』という書名と、「梁・華(陽)隠居 陶弘景撰」という2行の文字が書かれています。その間には「(三本合併条文)」という6文字の注記があります。
写本の最終ページには、右から左へ縦書きで『輔行訣臓用薬法要』の書名、「梁・華陽隠居 陶弘景撰」、そして「劉德興手抄三次整理」という9文字の署名が記されています。
この写本は、「病歴続頁」の裏面に書かれており、縦約18.5cm×横約13.0cmの大きさです。縦書きの万年筆で書かれており、表紙と裏表紙を含めて全45ページです。各ページは12行または13行で、1行あたり25文字前後です。写本中の「開五竅救死中悪方」の後には、「“完”75.7.20号」という日付が記されています。この写本の最後の2ページには、『婦人良方』巻三の「神仙解語丹」と、「補前陶弘景治天行熱病二旦六神之方、又増大小四方」にある大小勾陳・螣蛇の4つの処方が追加で書き写されています。
大小勾陳・螣蛇の4つの処方の位置が衣(衣之鏢)氏の写本と異なる点を除いて、この写本の文章は衣氏の写本と非常によく似ています。しかし、衣之鏢氏の回想によると、この写本は彼が1976年5月に写本を作成した際の原本ではないということです。この写本には、赤と青の2色のペンで線が引かれたり、注釈が書き込まれたりしている箇所が多数あり、劉德興氏がそのことについて文章で説明しています。
これらを見ると张大昌が尺が長く整理されている感がある。张大昌が自身の手で解釈され加筆されているバージョンである疑いが高い。
さらに続く。
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