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太刀の理は未知なれど、雷打は興味深い

杖道

 太刀に関しては、かつてある古武術において袋竹刀を用いた技法を学んだ経験がある。しかし、それは杖道とは異なる理合であり、現状では両者の共通項をほとんど見出せずにいる。ゆえに、過去の経験を安易に杖道の解釈に当てはめることは厳に慎まねばならない。

 将来的に、あるいは熟達した諸先生方の教導を仰ぐ中で、現在の私の解釈を「誤りであった」と振り返る日が来るかもしれない。そのことを予断した上で、現時点での思索を一つの興味深い視点としてここに記しておく。

 前稿に引き続き、全日本剣道連盟『杖道(解説)』を紐解く。該当する動作の記述は以下の通りである。

 

打(太刀側):刀を振りかぶりながら右足から踏み込み、左二の腕に切り付ける。

仕(杖側):右足から一歩踏み出すと同時に、左手を頭上に杖を斜めにして、杖先で水月(すいげつ)を突く。

打:左足から一歩退きながら太刀を上段に振りかぶり、右足を踏み込んで右肩を切る。

(全日本剣道連盟『杖道(解説)』平成29年度版 p.111より引用・要約)

 指導の場において、「左二の腕を切りつけた後、即座に右肩を切る。停滞してはならない」との助言をいただいた。この「停滞を排する」という課題に対し、私はある工夫を試みた。

 左二の腕を切り付けようとした刹那、水月を突かれ、一瞬の「居着き(動作の停滞)」が生じる。この状態は形として正当なものであるが、ここで単に止まるのではなく、居着いたと見せかけて重心をその場に残しつつ、袴の中で密かに左足のみを後方へ退かせておくのである。そして、太刀を振りかぶる動作と同時に打ち込みへと転じる。

 この微細な先動を施すと、仕杖側には、打太刀の攻撃が間断なく連続して繰り出されるような錯覚が生じるようである。しかし結果としては、「(相手の練度を無視せず)しっかりと待て」との戒めを受けることとなった。

 こうした対応の差は、杖を操作する側の練度によっても大きく変わるものであろう。昨年の昇段審査を通じ、私は「許す心」の重要性を学んだ。武道は単に相手を制圧するためにあるのではない。ましてや杖道における打太刀は、仕杖の技を引き出すために存在している。

 相手の技の練度に応じ、打ち込みの速度を自在に調節できる境地を目指すこと。それこそが、独りよがりの工夫を超えた先にある「理(ことわり)」への到達ではないかと考えている。

 

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