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浅田宗伯と師の藿香正気散加減加減の妙

雑記

漢方家として臨床に立つ我々は、日々先人が遺してくれた方剤に助けられている。

例えば、冷房の多用と冷たい飲食物の摂取が常態化した現代日本の夏。そこで見られる体調不良の多くは、単なる熱中症(陽暑)ではなく、体内に「寒」と「湿」を招き入れることで生じる「陰暑」という病態を呈している。この「陰暑」に対し、藿香正気散が持つ守備範囲の広さには、いつも驚かされる。

しかし、この完成された処方であるがゆえに、その使い方を固定化し、思考を止めてしまうことがあってはならない。先日、浅田宗伯の『藿朴夏苓湯』と、在りし日の師の症例ノートに埋もれていた処方を改めて繙(ひもと)く中で、その見事な加減に触れる機会を得た。そこで見えたのは、藿香正気散という処方が持つ真の価値、すなわち「加減の自由性」というプラットフォームとしての優秀性であった。

基盤となる名方「藿香正気散」— なぜ加減がしやすいのか

まず、原点である藿香正気散を振り返りたい。宋代の『太平恵民和剤局方』に収載されたこの処方の適応病態は、胃腸の不調(内湿)だけでなく、湿熱の邪が皮(あるいは肌)に張り付いている状態にある。

構成生薬は13味と多いが、その働きは、この表裏にまたがる湿邪を同時に処理するために、実に見事に連携している。

  • 解表: 藿香を筆頭に、蘇葉・白芷が通陽させながら皮気を走らせて宣散させる 。桔梗が上焦の気機を通す。
  • 胃気の鼓舞: 甘草・生姜・大棗が守胃し胃気を鼓舞する 。
  • 理気化湿: 半夏・厚朴・陳皮・大腹皮が、胃脾小大腸に停滞した湿と気の滞りを強力に捌き、悪心や腹部膨満感を改善し鼓舞した胃気を下行させる 。そしてここでも藿香が温性で湿を捌きながら粛降する。
  • 利水: 白朮・茯苓が、胸や心下、胃脾の湿邪を取り除く。

この「外は肌表に張り付いた湿熱の邪を発散させ、内は胃腸の湿濁を化す」という完璧な布陣こそが、身体の内外にまたがる複雑な病態に対応できる所以なのである。この多機能性こそ、加減しやすい「プラットフォーム」としての優秀性の源泉と言える。

応用例に見る加減の妙技

この優れたプラットフォームを、浅田宗伯と師はどう使いこなしたのだろうか。

応用形① 消化器症状特化:浅田宗伯『藿朴夏苓湯』

浅田宗伯は、藿香正気散から体表に働く主軸(蘇葉・白芷など)や、白朮・甘草などを去り、代わりに猪苓・沢瀉という、五苓散の要薬でもある強力な利水薬を加えた(藿香、半夏、茯苓、厚朴、杏仁、猪苓、沢瀉、豆豉)。甘草を去るのは大胆すぎて私は守胃したくなる。

それはともかくこの加減により、処方の主目的は体表の邪を発散させることから、「消化器症状」、特に水様性の下痢や嘔吐といった「水滞」の病態を捌くことへと明確に特化された。これは、藿香正気散を「対・胃腸の内湿」に最適化した、見事な加減方である。

応用形② 呼吸器症状特化:名も無き師匠の処方

一方、在りし日の師は、消化器症状がなく、鼻汁・咽頭痛・咳嗽・身重を訴える患者に対し、同じく藿香正気散を基に処方を組んだ。師は、陳皮・大腹皮といった消化器に直接働く生薬を去り、「身重」という主訴に的を絞って、利水滲湿の作用を持つ薏苡仁を加えたのである(藿香、蘇葉、半夏、厚朴、白朮、茯苓、干生姜、薏苡仁、桔梗、甘草)。

その結果、体表に働く主軸(藿香・蘇葉)と、上焦に働く桔梗・半夏といった生薬の働きが際立ち、処方の主目的は「呼吸器症状」(鼻汁・咽頭痛・咳嗽)と、肌表に停滞する湿邪(身重)の治療へと鮮やかにシフトした。これもまた、藿香正気散を「対・上焦(呼吸器)と体表の湿」に最適化した、見事な一手と言える。

結論:臨床家として受け継ぐべき視点

これらを整理すると、3つの処方の関係性は実に明快である。

  • 基本形:藿香正気散 肌表の湿熱と胃腸の内湿を同時に捌く、万能のプラットフォーム。
  • 応用形①:藿朴夏苓湯 胃腸の内湿に特化。利水作用を強化し、水様性の下痢や嘔吐を主目標とする。
  • 応用形②:師匠の処方 肌表の湿と上焦の症状に特化。消化器系の薬味を削ぎ、呼吸器症状と身体の重だるさを主目標とする。

一つの優れた基本処方を深く理解し、その構成を自在に加減することで、ある時は消化器を中心に、またある時は体表や呼吸器に、と専門性を高めた処方を生み出すことができる。

先人の知恵を学び、それを目の前の患者一人ひとりに合わせて最適化していく。浅田宗伯と我が師が示した二つの処方は、まさしく漢方臨床の神髄である「加減の妙」を、我々に雄弁に物語っている。

最後に — 理論を超える臨床の叡智

ここで一つ、この処方の核心に触れる重要な問いを立てておきたい。それは、なぜ「湿熱」の病態に対し、「温性」の薬物である藿香、蘇葉、白芷を主軸とした処方が有効なのか、という点である。

理論的には、熱邪に対して温薬を用いることは、火に油を注ぐ行為にもなりかねない。しかし、藿香正気散が数百年もの臨床を経て有効とされてきた事実が、我々に単純な「寒熱論」を超える視点を要求する。

その答えは、この病態の主役が「熱」そのものよりも、粘りつき、停滞する「湿」にある、という点に見出せるだろう。湿は陰邪であり、これを動かし、気化させ、発散させるためには、芳香性や辛味を持つ「温性」の薬効が不可欠となる。冷たい薬で静的に熱を冷ますのではなく、温かい薬で動的に湿を散らすことで、結果として熱の居場所をなくすのである。

さらに言えば、ここで問題となる「熱」の多くは、湿によって気の巡りが阻害された結果生じる「鬱熱」である。藿香や蘇葉が持つ力強い気の巡りを回復させる作用は、この鬱滞を打破し、気機を通じさせる。気が再びスムーズに流れ始めれば、鬱熱は自然と解消に向かう。まさに「気行ればすなわち熱も散ず」という理屈である。

漢方医学は、机上の理論から生まれた学問ではない。目の前の患者を救うための、膨大な臨床経験の積み重ねから、後付けで理論が体系化された「実践の医学」である。藿香正気散は、そのことを我々に教えてくれる最高の教科書の一つだ。「湿熱に温薬は禁忌」というルールに固執していては、決してこの名方は生まれなかった。

先人たちは、理論の壁を乗り越え、臨床の事実を最優先し、この絶妙な薬物の組み合わせを発見した。我々もまた、理論を深く学びつつも、それに縛られることなく、目の前の患者にとって何が最善かを問い続ける臨床家でありたい。この自戒の念を、本稿の締めとしたい。

 

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